振内を憶う

私は小学校5年生から中学校3年生までの5年間を平取町振内で過ごした。札幌の高校に通うため、振内を離れたのが、1962年だから、今年(2015年)で53年の月日が流れた事になる。仕事は道外であったが、一身上の都合とやらで、1995年から再び札幌に住むようになって
以来、3度振内に出向いた。多感な少年時代に喜びも悲しみも、たっぷり詰まった振内は何かと気になるのである。だから今年5月の新ひだか町田原に続いて、次は振内も記録に残して置きたい、と構想を練っていた。そんなある日、静内の墓参りの帰りに振内にも立ち寄ると言う話が妹夫婦の間でまとまった。
*スライドショー写真
 振内市街・旧振内駅構内・振内小学校・池売橋(2015/8/8)、沙流川と立岩(1995/10/14)
*振内の語源はアイヌ語で「赤い」を意味する「hure」と、「」を意味する「nay」に由来する。

振内市街は激変

約10年前に振内を通った時、街並みに変化を感じていたが、今はもう、昔の面影は全く無くなっていた。ここまで変わると、これはもう新しい街が出現したと言ってもいい。これで先ず躓いたのが昔の振内中学校探し。「振内小学校入口はどこじゃ」と助手席から探したが、通り過ぎてしまった。目印にしていたのは営林署入口の門であったが、そんな風景はどこにも無かった。確かこの辺と思い、うろうろしていたら、昔懐かしいグランドのバックネットに行きつき、位置が分かった。
では、どれだけ変わったかと言うと、2001年7月19日ではこうだったのが、 2015年8月8日ではこんな風になっていた。デザインされた歩道は広く、街灯やフラワーポットもある。建物はブラウン系の配色が多く、とてもモダン。惜しむらくは、むかし慣れ親しんだ商店の名前がどこにもないことだ。もし、後継者がいて経営が成り立つのであれば、どこかの街の様に"Since 1930"などと建物正面に刻印できたのだが。

では昔を偲ばせる2001年7月14日撮影の写真を見てみよう。先ずは「東城商店」。まるでタイムスリップしたかの様な古い建物だが、1957年から5年間はこの家に度々お邪魔した。東城商店にはクラスメートがいたのである。当時、一般家庭には未だ普及していなかった白黒テレビがあった。それも17吋のものだ。
そこから目を左に向けると順に近藤商店、民宿長沼と読める。その先には曽木書店があったはずだ。ここでは雑誌の「少年冒険王ぼくら」を買って読んだ。中学生のころは兄の影響で電気に興味を持っていたので、「初歩のラジオ」や「無線と実験」も時々購読した。雑誌の発売日に行った時、お目当ての本がないので尋ねると、「その内、入るから大丈夫だよ。それに無くならないよ。買うのはあんたくらいだから」と言われて安心した。これが後に私が電気技術者となる始まりであった。
次は「後藤商店」、ここでよく覚えているのは「カバヤキャラメル」。味は良くないのだが、クジが目当て。ここで懐中電灯が当たった事もある。味で言えば、古谷製菓の「ウィンターキャラメル」や池田製菓の「ヒュッテキャラメル」が好きだった。
写真は無いのだが、魚を扱っていた佐藤商店今多豆腐店佐々牛乳店には同級生がいた。
娯楽と言えば、振内にも劇場があった。検索で出てくるのは「振内劇場」、当時は「堂前劇場」と言わなかったかな?と思い、検索したら、「日高・振内劇場のお孫さんがご来館!」と言う「北の映像ミュージアム」のブログにヒットした。これは実に貴重な情報であった。実はここで「どうまえ」が「堂前」だと判明した。経営者は堂前吉之助さんと言い、平取町町長の傍ら、映画館主を務めていたと言うのである。単なる劇場主では無く地域の名士だったのだ。「堂前さん」と言えば「振内劇場」の事を指していた。当時、「振内劇場」で見た映画で覚えているのは「赤胴鈴之介」、「鞍馬天狗」、「人間の條件」、「悪い奴ほどよく眠る」、「喜びも悲しみも幾歳月」、「哀愁列車」。「ノンちゃん雲に乗る」は歌笛だし。時代劇とか喜劇も見たがその題名となると出てこない。当時は時代劇で正義の味方が出てくると拍手したもんだ。
「喜びも悲しみも幾歳月」の一場面(テレビより)

※関連ページ:石狩観光内の灯台(石狩灯台・稚内灯台・犬吠埼灯台・城ヶ島灯台・鵝鸞鼻灯台・禄剛崎灯台等)
そうだ、劇場の向かいに銭湯があったと思い、調べたら、国立国会図書館の「振内郷土史編集委員会編・郷土史ふれない」の目次に「恵比寿湯」とあったのでこれかも。
2016年10月21日、「みなみくん歩好会高齢者福祉バス」に参加した。その行程中、「沙流川歴史館」で衝撃が走った。何とそこに「振内劇場」の写真があったのである。この「振内劇場」は「北海道映画館史」なる本を見ても、なかったので諦めていた。それが、二風谷にあるとは!
確かにこんな風だった。劇場前の通りはいま「町道劇場線」と言い、劇場の前に堂前宅があったと言うのである。この日は曇り空の上に寒く、気分は冴えなかったが、思いがけない収穫を得た。(写真は昭和24年1月)2016年10月21日追記

アンテナがない

街並みの写真を見ていて、屋根にアンテナが無いと思ったが、隠れたところにあった。そうか、今は地デジだから、アンテナが小さいから目立たなかったのだと合点した。昔ならVHFとUHFを上下二段にしたり、VHFアンテナだけを利得や指向性を稼ぐためスタックアンテナにしていたから、目立ったのである。
ちなみに我が家にテレビが入ったのは1958年(昭和33年)と思われる。14吋のナショナルを静内の竹内電器店から58,000円で購入。受信できたのはIchのHBC(札幌)と9chのNHK(室蘭)だが、NHKは気象条件で映りが安定しなかった。このとき、隣の子まで見に来ていた番組は日曜日18:30分からの「光子の窓」と言う音楽バラエティショー。今でも草笛光子さんをテレビで見ると、当時の事を思い出す。
*当時のテレビはこんな風(1998年4月4日、滝川市博物館で撮影、もちろん真空管

テレビ音声をマイク録音したんだとか、静止画、YouTubeより

振内駅跡地

これまで振内に3回も行っているのに、なぜ振内駅跡地に行かなかったかと言うと、何れもドライブのルート上に振内を入れたと言う程度なので時間がなかったからだ。今回はここをメインに考えたので、ゆっくり見学ができた。ただ、振内鉄道記念館は平日のみの開館なので、残念ながら、見学できなかった。

駅構内のいま

客車はディーゼルであったが、貨物輸送のとき、SLを使ったのであろうか。D51が一応、静態保存と形で、線路上に置かれているが、ボディーにコケは生えるや錆び放題。これまで色々な所でSLを見て来たが、ここが一番ひどい。だが、屋内に保存したり、屋根付きで無い場合は他も今はこんな風になっているのかも知れない。(2017年6月10日の確認ではスライドショーのように綺麗になっていた。)
ホームに置いてある駅名案内板。幌毛志→振内→仁世宇→岩知志と懐かしい名前が並ぶ。文字がだいぶ消えかかっているが、この先、どうするのだろうか。

開通式でのテープカット

国鉄富内線が富内駅より振内駅まで延伸したのは1958年(昭和33年)11月15日。そして、6年後の1964年(昭和39年)11月5日に日高町駅まで延伸開通となった。富内線が最後を迎えたのは1986年(昭和61年)11月1日とのことだ。
富内から振内まで鉄道が延びた日、振内駅で開通式を行った。当時、私は小学校6年生で児童会の会長をしていた。2年下の妹が児童会の書記をしていたので、妹や児童会の役員と一緒に、開通式のテープをホームをまたいで持った。あれから間もなく57年、兄妹二人して、このホームに立てたことを記念して、駅名案内板横でツーショット。

開通一番列車が到着

振内開通時の写真がどこかに無いかネットで探した。すると日高開通時の写真が北海道新聞社編「国鉄北海道ローカル線」の中にある事が分かった。ならば、振内開通時のものもあるかも知れないと思い、Amazonから中古本を取り寄せた。すると幸運にもp149に「富内ー振内間が開通、振内駅に到着した処女列車(昭和33年11月)」と言うタイトルの写真が載っていた。
この写真は一番列車から乗客が降りて来る所であるが、その前に行われたテープカットの場面に我々がいたのである。しかし、覚えているのは開通式の当日、ホームでテープを持って立っていたと言う事実だけ。回りにどれだけの人がいて、どんな風に列車を迎えたか、まるで記憶にない。

懐かしの振内駅

また同写真集のp158には振内駅の写真が載っていた。その写真をスキャンしトリミングしたのがこれ。確かに振内駅はこんな風だった。開通前までは富川までバスで行き、そこで国鉄に乗り換えて、苫小牧や静内に行ったのが、振内駅から各地に国鉄一本で行けるようになったのだ。

そうだ、この頃に北海道博覧会に行ったと思い調べたら、開催日程が1958年07月05日(昭和33年)~1958年08月31日(昭和33年)で、札幌市での会場が桑園・中島公園とあった。一瞬、富内線で行ったと思ったがそうでは無かった。
このころ桑園には叔父が住んでいたが、寄ったのだろうか。何と言ってもここでのハイライトは見るより団子。丸井今井の前で、母親が買ってくれた1本40円のバナナ。このとき、初めてバナナなるものを口にした。当時としては高いものだが、都会でないと口に出来ないものを奮発してくれた。さて、主婦の定番、金市館へは、行ったのかしら?

2016年7月23日、「交通資料館まつり」に行ったら、こんなのがあった(昭和33年、北海道大博覧会記念花電車)。「トリスウィスキー」とあるから、「ニッカウヰスキー」の提供だが、どこで写したものなんだろう。トリスなんて懐かしいが、ウィスキーを飲み始めた頃の価格はトリス340円、ハイニッカ500円、レッド500円だった。

6年後には日高町まで

これは1964年(昭和39年)11月5日に富内線が日高町まで開通した日の模様だが、これだとテープカットの跡が写っている。この時もやはり振内小学校児童会の役員達が担当したのだろうか。

左:p156「▲振内-日高町開通を祝う住民たち(振内駅、昭和39年11月)」の写真をトリミング
右:p153「富内線」の本文より抜粋

振内中学校時代

振内中学校から振内小学校へと校舎は変わってもグランドは変っていない。写真は1995年10月14日のものであるが、今と大きな違いはない。まぁ、サッカーコートが増えたくらいかな。当時、このグラウンドで野球・ソフトボール・バレーボール・陸上競技・運動会・スケートをやった。夏場は野球がメインであった。その合間にバレーボールの大会があればバレーボールの練習、陸上競技の大会があれば、それぞれの競技に分かれて練習した。専属なんてありゃしない。みな掛け持ちで担当した。冬はスケートがメイン、たまに振内山に行ってスキーをした。

スケートと言えば、いまの振内小学校でもスケートリンクを有志の方が集まって作っていると言うのである。当時も、えらくしばれそうな時は消防署の手押しポンプ車を借りて来て、先生たちが夜に水をまいた。生徒の仕事は日中に雪を踏みつけて固めることであった。
*振内中学校校歌の出だし:幌尻の山嶺白く・・・、ここまではメロディーも出るが、この後が出て来ないのだ。誰か知っていないかなぁ~。
*メモ:当時の振内中学校は1学年2学級で1クラス30名程度
遂に校歌の全文が道立図書館所蔵の「平取町史」で分かった。(2016/07/19)
振内中学校校歌 作詞 森一男 作曲 横山喜多留
一 ホロシリの山嶺白く 野鳥飛ぶ原始の森に かおりも高き文化の旗を 今 力あわせ打ちたてん ああ 我らが振中
二 沙流川の歴史は眠り 父母が拓ける大地に 想いは高き自主の旗を 今 力あわせ打ちたてん ああ 我らが振中
*ついでに振内小学校校歌も載せておこう。
振内小学校校歌 作詞 金子安一 作曲 千葉日出城
一 そびえてたかき ほろしりの 峰をあおぎて 高ねより ひいでしひとを こころざし たゆまず 学ぶ うれしさよ
二 みずきよらけき 沙流川の 流れにたてる いわおより 強きからだを 、めざしつつ (最後は不明)

腰痛の原因はこれ

冬のあいだ体育の授業はスケートであった。スピードスケート靴のメーカーはSSS(サンエス)といい、エッジは学校の研ぎ室に行き、自分で研いだ。スケートリンクは一周200m足らずの小さなものだったので、トップスピードになると直ぐ左カーブが来た。それもカーブがきつい。だから小刻みに曲がらないと飛び出してしまう。そんな環境で全道大会を目指し、夜も練習した。
中学校を卒業して、数年経ったあたりから、腰が疲れやすいと認識するようになった。寒い中、腰をかがめながら、カーブを切るとき左股関節を酷使し過ぎたのが、どうも原因のようだ。それでも若いうちは無理をしないで騙し騙し使っていたが、50代後半はピンチだった。散歩に行ったつもりの公園で3~4分も歩くと、すぐ疲れて近くのベンチに座りたくなるほどに悪化してしまった。
何とかせねば、と思い試しに左股関節ストレッチ運動をやって見ると、正の方向にベクトルが向いているように思えた。こうなるとしめたもの。あとはしつこく、こつこつと続けたら治ってしまった。右膝の時もそうだった。正座したら右膝が痛くて座れなかったので、膝のストレッチをやったら良くなった。こんな風にストレッチ効果を実感できたので、今は予防のため、体全体のストレッチを取り入れている。
いま一番力を入れているのが、5Kgのダンベルを下に置き、足踏みをする運動。これで、ふくらはぎが1cm太くなって36cmになった。サルコペニアの判断基準のひとつに30cm以下と言うのがあるが、未だだいぶ余裕がある。内臓のストレッチは白隠和尚の呼吸法が良いと思い続けている。さて、頭のストレッチは? 未だ確立していない。

放送陸上は今もあるの?

地方大会(日高/胆振地区、苫小牧)とは言え、このとき走幅跳で獲得したメダルを今もなお後生大事に持っている。それは後にも先にもこれしかないからである。中学3年生の時、念願の優勝を果たしたのに、3位の時よりメダルが小さくて、少々がっかりしたことを覚えている。

ウィキペディアによると「第1回大会は、1955年(昭和30年)8月にNHKの放送網を利用して日本中の競技場を実況中継で結ぶ「全日本中学校放送陸上競技大会」の名称で開催された。第20回大会から通信陸上の名を使用している。」とある。私が出場したのは第6回(1960年)と第7回(1961年)だから、このデータと符合する。
大会記録を調べて見ると
全日本中学校陸上競技選手権大会記録:100mは10秒64(男子)と11秒61(女子)、走幅跳は 7m22(男子)と6m12(女子)
とあった。ちなみに、中学3年生のとき出した私の記録は5m83だから、今の日本記録と1m40も差があるし、女子にも及ばない。5m83を出したとき当時、公式審判員として同じグランドにいた父親から「日本記録は6m50だから頑張れ」と言われたが、83以上には跳べなかった。実はこのとき、中学1年生の妹も走幅跳の選手として出場していたのである。これが珍しいと言うので妹と二人でNHKラジオのインタビューを受け、全国向けの電波に乗った。そして、その音源を後で聞いたような気もするが定かではない。

札幌の中学校に一日入学

中学2年生の時、札幌の中学校に1日だけ入学して授業を受け、放課後に生徒会と交流会を持つ、と言うのがあった。これは平取町の制度してあった訳ではなく、どうも誰かのアイデアで一時的に実施された様に思う。
行った先は一条中学校(札幌市南2条東6丁目)と凌雲中学校(札幌市北2条西11丁目)だが、この二校は1968年9月に統合し、札幌市立中央中学校となった事は今回この記事を書くに当たり、調べて見て初めて知った。このとき、小学6年生の妹は大通小学校曙小学校に行っている。こう見ると振内時代は妹とセットで色々な行事に参加していたのである。だから、妹とは共感できる点が多い。
授業は特別なこともなく、何となく過ぎて行った。授業後の交流会では平取中学校の生徒会長が挨拶した。「今回の一日入学で今まで都会の人に対して抱いていたコンプレックスが無くなった・・・」見たいな事を流暢に話していたが、この人ならそうかも知れないし、この人がいてくれて良かったとも思った。もし、自分だったら、即興で気の利いた挨拶なんで出来やしない。
このとき、泊まった旅館は大通りの南側にあった伊藤旅館!、違うかな~、そうだ、この時に兄から二眼レフカメラWALZFLEXを貰ったのだ。

この近くに住んでいた

むかし、この辺は平屋の教員住宅が一列に四棟ほど建てられていた。そして道路を挟んで校舎の窓側に沿って、それぞれの小さな畑があった。我が家では更に奥の体育館脇の空き地も畑にしてしまった。それからと言うものは大変。畑を耕したり、堆肥を作ったり、消毒したり、収穫したり、家族全員でカバーした。それに鶏も飼っていた。父親は校長の身でありながら、組合の仕事をしたり、陸連の仕事をしたり、結構忙しかったはずなのに何でそんなに規模を拡大したの? もし、父が生きていればこの事は是非とも聞いておきたい事のひとつである。そんな事を思いつつ、今度は私もピーススタイルで、また妹とツーショット。

住んでいたのはこの家

妹の所に振内の家だけを写した写真があると言うので、送って貰った。ケータイで撮ったと言う事で、ファイルの拡張子がeml。一瞬、読み込めるか、と思ったが、Chromeで表示できた。
屋根を見て思った。ここに梯子を掛けて上り、布団を干したり、煙突掃除をやったり、テレビアンテナの位置を調整したもんだと。あれっ、アンテナは?と思ったが、屋根の右側にアンテナのマストが微かに見えて安心した。建物の右側には鶏小屋、物置、石炭小屋があった。家の前では石蹴り、釘差し、パッチ、缶蹴り、かくれんぼ、陣取り、長馬跳びをして遊んだ。それと男の子の定番チャンバラごっこは営林署と振内山。
家の写真は1961年(昭和36年)1月1日撮影、35mm固定焦点カメラ。
当時の石炭ストーブのイメージはこんなの。1998年4月4日、滝川市博物館で撮影。

昔の写真をトリミング

左の写真は昭和30年代、振内中学校で実際に使っていた石炭ストーブである。教職員室で、先生方を撮った写真にこれが写っていたので、ストーブだけを取り出した。石炭の着火は新聞紙を小さく固く折りたたんで、やったものだが、どんな風に折りたたんだら着火しやすいか学友と競い合ったものだ。その内、石油系の物質を染み込ませた着火剤が出回るようになってからは着火が楽になった。
当時は石炭を「くべる」と言った。それに「デレーキ」、これは先が少し曲がった鉄の棒のことだ。これで石炭を突っついて、火の回りを良くした。石炭を入れる時は真ん中についている蓋をデレーキで開け、小さな石炭用ショベルを使って石炭をくべた。石炭はかーっと燃えすぎて真っ赤になったりする。すると室温は30度オーバー。ストーブの回りにいると顔が真っ赤になることもあった。

カメラはSTART35この写真は正しく旧振内中学校だ。画面右に先生方の玄関があり、生徒用は左端にあった。校舎の右端に音楽室があり、有名なクラシック音楽をレコードで聞くと言う授業もあった。 冬になるとグラウンドはスケートリンクになった。生徒の役目は日中に長靴を履いての雪踏み。実際のリンク作りは先生方と地域の住民たちが、しばれる夜に水を撒いて作った。
※振内時代のカメラはSTART35、一光社・1950年発売・24×24mm・S:Summer・W:Winter・Bと1/25


2017年1月30日の朝早く妹(上の写真)から電話連絡が入った。今朝の道新に振内小学校スケートリンクでのブーツホッケー大会の記事が載っていると言う。何と!、あのスケートリンク作りが、今もなお脈々と続いていたのである。と言う事はもう少しで、かれこれ60年になるのかな?
話の中で、最初のスケートリンクは畑に父が作ったと言う。確かにそうだ。下の写真で冬は畑の所にスケートリンクがあったのだ。これが2年位続いて、いよいよ学校のグラウンドにスケートリンクができたのである。
(上の画像は近くのコンビニで買った北海道新聞をデジカメで写し、Web用に加工したもの。オリジナルはこちら。デジカメ:Fujifilm X-E2,レンズ:NIKKOR-S・C Auto 1:1.4 f=50mm、マウントアダプター使用、この項は2017/1/30追記)

学校の裏に回ると、こんな風だ。左奥は体育館である。冬はスケートばかりでなく、この体育館でバスケットをして遊んだ。小学校低学年時代の田原と歌笛は小学校と中学校が離れていたが、ここ振内はすぐ近くにあった。だから、この時代の昼食は家に帰って来て食べた。

これは何の運動会だろうか。テントには振内小学校・振内中学校・岩知志中学校と書いてある。これに仁世鵜小学校などと書いたのがあったら、近くの小中学校が集まった合同運動会だったのかも知れない。

沙流川と立岩

写真の立岩は振内中学校(今の振内小学校)から沙流川の方に歩いて行くとあった。この辺りで良く泳いだが、水は冷たく、流れが急なので危ないところであった。ここで足がつり溺れそうになった事もあった。そんな事もあり、足が立たない所には行きたくないし、泳ぎは不得意のまま現在に至っている。
(右の写真は1995年10月14日撮影)
沙流川流域には美石が多いので、母親がでめんちん*を貰いに池売橋の方へ行って石拾いをした事もあった。賃金は確か1日400円だったと記憶している。私自身は中学生のとき、市街地の舗装化に向けた測量のアルバイトをした事がある。アルバイト料は1日350円で10日働いた。
沙流川へは立ち入り禁止このとき得た金で何を買ったかと言えば、それは腕時計であった。購入先は通販もやっていた北海道相互興産(そうご電器の前身)と言う会社。17石のもので3,500円位であった。店舗は札幌市大通西5丁目の大通ビル(多分)にあったので、札幌の高校に在学中の時、学生服を買いに行った事もあった。またSTANDARD製で短波が入るトランジスタラジオを10か月月賦で買ったことも。いくらだったかな~。14,800円だったかも。
今回、立岩の方に行ってみようとしたが、多分かなり前から、こんな風になっていて、立ち入り禁止状態の模様。
でめんちん:北海道弁で日雇い労働者の賃金のこと。当時よく使われていた言葉。
また、でめんとりは日雇い労務者、アルバイトの意味。

池売橋を渡る

今の振内中学校には未だ行ったことが無いので池売橋を渡り行って見た。建物は見るからにかなり古い。ここに移転して来たのはいつなのだろうか。学校の公式ホームページがあって、学校の沿革があると助かるのだが。
実はこの池売橋にはちょっとしたエピソードがある。それは高校1年生のときであった。夏休みで帰省していたとき従兄が遊びに来た。振内散策と言っても特に行くところがない。ではちょっと川向の池売にでも行って見ようと池売橋を渡っていた。そのとき、向こうから女子高校生がやって来た。ちょっと顔を赤らめているように見える。誰だか直ぐに分かったが、従兄の手前、よそ行きに振舞った。「帰っていたの。いつ戻るの?」などと二言三言で話は終わった。ずっと後で、地元の人の所に嫁いだと言う話は聞いたが、今どうしていることか。

もっと古い写真があった

むかし、若いころ、会社の同僚と4名で北海道一周旅行をした時に振内の写真が無いかどうか探したら、こんなのが見つかった。この時から撮る所は決まっていたようだ。
これは後藤商店の文字が見えたので撮ったんだね。Coca-ColaやFantaの看板も見える。
こちらは東城商店付近。どこも大売出しをやっている。こう見ると商店がたくさんあったね。今と大違い。
日糧パン、なんとか食堂、高砂、ナショナル、三馬のゴム靴、ダイヤモンド毛糸、公衆便所もあった。

この時のドライバー2名のうち運転していたのはどちら? やはり、「すずめのおやど」(ブログにリンク)の主人かな。
*撮影は1975年8月初旬、カメラはMamiya-sekor 500 DTL
*このときの車はケンメリ スカイライン2000GT(リンク先のページ中ごろ)
おやどの主人と一緒に働いた事のある会社ローテル(www.rotel.co.jpにリンク)

森一男先生

振内が小説の中で描かれているのは森一歩(モリ イッポ、1928年、旭川出身、慶応義塾大学で英文学、本名は一男)の作品位か。私がなぜ、このことを知ったか、少し書いて見ようと思う。
※写真は振内郷土史編集委員会所蔵の英語クラブ記念写真よりトリミングしたものです。

コロポックの橋

1960年(昭和35年)、理論社から発行された「コロポックの橋」は第9回毎日児童小説賞を貰った。そこで記念にと、少し前まで英語教師をしていた振内中学校に寄贈した。その本を当時校長だった父から、私が一冊貰ったのである。
一度は読んだが、内容は忘れてしまったので、ネットの力を借りよう。戦後児童文学への一考察によると、

1960年の『コロポックルの橋』(森一歩)でも子どもを取りまく環境は苛酷である。北海道の深い山間部での開拓部落が舞台だから、ポンプ井戸どころかつるべ井戸もなく、川には橋一つない。そのため、子どもが病気になっても、すぐには医者にも行けない。そして、最後には、主人公の少年の身代りになって愛犬コポが溺死し、その美談が実って橋がかかるようになる。最後の言葉は「そう、こういう悲しいことも、何度もがまんして、ふみこえて、ぼくたちは、だんだんと強く立派に成長して行くんだ。」である。

北海道の深い山間部とはどこだ。橋一つない所に橋がかかる。幌毛志あたりを題材にしたのかも知れない。

また、「アイヌ民族が登場する児童書(北海道児童文学全集)」には

海から40キロも山奥に入った開拓部落での話しです。実際のアイヌは登場しないのですが、アイヌの古老に聞いた昔話が出てきたり、 カラスのパスは「パスクル(カラス)」から、犬のコポは血統のしっかりしたアイヌ犬で「コロポックル」からつけたことになっています。

海から40キロとは正しく、振内あたりを指している。その昔、バスの車窓から見た標識には「振内36Km」と書いてあった。 いま、「コロポックリの橋」は手に入らない。辛うじて、「雪原の王者」が道立図書館にあるので、また行って見るかな。(2017/2/4 アイヌ民族から追記)

「北海道児童文学全集第7巻」(天使で大地はいっぱいだ、コロポックルの橋」が著者の生まれ故郷である旭川の「古書 さんぽ」にあった。いま、少しずつ読んでいるが、気になったことを書き留めておこう。
●「昔、アイヌより以前に、コロポックルという人種が住んでいた。・・・・・・蕗の下にかくれるほど小さな種族だが、姿が気高く、神様のような美しい心をもっていた。・・・・・・そんなアイヌの伝説があった。(p195)
F中校歌として、
「ホロシリの山嶺白く 野鳥飛ぶ原始の森に いま香り高き文化の旗を 力合わせうちあてん ああ母校 我らが故郷」(2番省略、p199)
●村はずれまでくると、人夫が鉄道工事をやっていた。来年この村まで鉄道がつうじることになり、その完成を急いでいるのであった。鉄道もいいが、それより先に部落の橋をつけて欲しいな、と象太郎は思っていた。(p225)(2017/2/22)
F中応援歌として
ホロシリの 空晴れわたり 意気高らかに つどう者我等 力の限り 力の限り いざたたかわん 若人我等
我等が 選手の行くところ くれないの 焔は燃えて 力の限り 力の限り いざたたかわん 若人我等
我等が二百の友の 声に答えん いざ今日の日に 力の限り 力の限り いざたたかわん 若人我等(p281)
とあるが、歌った記憶がないので、実在はしていなかったように思う。(2017/2/28)

帰ってきた鼻まがり

サケが生まれ故郷の振内を目指すのだが、本文ではフレナイと表記され、付箋のあるページにフレナイと言う文字が出て来る。例えばp102に「<鼻まがり>たちは、故郷のにおいをかぐと、きゅうに元気をとりもどしました。橋があります。五年前は、ここに、わたし船がとおっておりました。川をくだるとき、<鼻まがり>は怪物のように川をよこぎるわたし船におどろいたものでした。・・・・橋をとおりすぎると、フレナイの町でした。川のりょうがわに家がならんでいます。赤いポストのあるたてものは郵便局でしょうか。」と続く。振内を知っている人ならこの場所を想像できる。ここに出てくる橋は幌毛志橋のようだ。「わたし船」から見て取れる。
p120の「この本を読んでくださったあなたに」に次の事が書かれている。少し長いが全文を載せることにしよう。

わたしは、沙流川の上流、振内で、四年あまり、中学校の教師をしていたことがあります。そのころ、自然や動物がすきだったので、よく山や川へ行きました。わたしの作品『コロポックルの橋』は振内の開拓部落の少年と犬を書いたものですし、『高原の王者』は、振内の山とシカを書いたものでした。
沙流川のサケを書くことは、わたしの長い間の夢でした。満月の夜など、ひとりで川原に出かけ、時間をわすれて、耳をすましていたものです。帰ってきたサケたちは、みんな、いっしょうけんめいになってあなをほり、卵をうんでおりました。パシャパシャと音がします。月の光をうけて、川面が美しくゆれます。わたしは、これは、沙流川のおまつりだと思いました。秋のさむさと川のサケのおりなす詩的なドラマに、わたしは、しびれるほど感動しました。サケたちは、四-五年たって、うまれ故郷に帰ってきたのです。しかし、ぶじに帰ってくるサケは、なんと少ないことでしょう。
川がよごれ、海がよごれ、そのために病気になった死んだサケは数しれません。しまいには、もどってくるサケは、一ぴきもいなくなるかもしれません。わたしは、そのことを心配していました。そして、振内をはなれてから二十年以上もたって、とうとうがまんができなくなって、サケの話を書きました。
近ごろ、あちこちで、「元気で、もどってこいよ。」と、サケの稚魚をなん万尾も放流しているようです。すばらしいことです。しかし、その前に、川や海をきれいにしなければなりません。みんなで力を合わせて、もういちど、日本の美しい自然をとりもどそうではありませんか。
今、わたしは、沙流川の秋の川原に立って、この本を朗読したい気もちでいっぱいです。(森 一歩)


三浦忠雄先生

三浦先生は樺太生まれの江差育ち。北海道学芸大学函館分校を卒業されたあと、理科の教諭として、昭和30年4月、振内中学校に赴任した。その当時の印象は酒もタバコもやらない真面目な先生と言う感じ。当時、教職員会議のあとに懇談会をやったあと、我が家にそのまま流れて来て二次会をやったものだが、その中に三浦先生はいなかったように思う。
理科と言っても範囲は広いから、何が得意なのか全く記憶せず卒業した。それが、最近、ある巡り合わせで、同級生の佐々憲一君(山女養殖の仁世宇園経営)(リンクはNHK室蘭放送局、2017/6月10日仁世宇園に訪問)と電話で話す機会を得た。その時、「いま静内在住で、日高の花なんかを調査していた」と聞いたので、もしかして本を出しているかも知れないと思い、Amazonで検索したら、「日高路やま 花 たび」という本が古書としてあったので早速購入した。
更に調べていくと、「新版えりもの植物」と言うのもあり、これは札幌の古書店で手に入れた。ネット上では「日高の森と海を語る会」の会長として、その名を賑わしている。でも今は高齢のため名誉会長的存在とか。
今度、静内のお宅に訪問したとき、本に出ている水芭蕉の群落(リンクはOwlnetの水芭蕉)はどこにあるのか聞いて見ようと思う。訪問時期は桜の咲く頃にして、真歌公園に行ってみたい。

2017/4/20追記

ドライブメモ

静内の墓参りから振内到着までに立ち寄った所。左から静内の天政(寿司定食・950円)、太陽の森 ディマシオ美術館(小休止とトイレ)、二風谷(小休止とトイレ)

これらに加えて、田原小学校跡地を今度は妹も交えて見学。
*関連ページ
いざ、田原へ(2015/5/7、小学校1年と2年を過ごした新ひだか町田原を歩く)
深山幽谷の恵み(二風谷・貝澤民芸店、こくわ、グスベリ、旭、マタタビ、ぐみ)

更新情報・お知らせ

理科の三浦先生追加NEW
「喜びも悲しみも幾歳月」の写真追加
ボルタ版カメラSTART35追加
昔の写真をトリミング追加
交通資料館まつりでの北海道大博覧会記念花電車追加
振内中学校校歌の全文を追加
「振内に思いを馳せて」公開(レスポンシブ対応ページ、左サイドはPCのみ)

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振内駅跡に建つ鉄道記念館

D51を真正面から

国鉄北海道ローカル線の表紙
民宿沙流川

p153より抜粋
民宿沙流川

東城商店ってこの辺?

これが最初、見つけられなかった
振内小学校入口

円形体育館時代からのもの? 二宮金次郎

宿と言えばこれくらいか
民宿沙流川

昭和のお店はこんな感じ
昭和のお店

トマトジュース工場
ニシパの恋人

帰ってきた鼻まがりp20
民宿沙流川

1975年、知床に向かう途中
これでこの写真もやっと日の目を見た
知床の夕日

この旅行では色々なポーズで撮った
言いだしっぺはやはりおやどの主人?

陸の孤島と言われた太陽小学校跡の
新冠 太陽の森 ディマシオ美術館
民宿沙流川

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